練習もおもしろいですね。
あるジャズファンとお話しをしていたら、ライブの話になった。自分
の主催するライブの事について、ライブの準備からお話をしている内に、
練習という言葉を使ったところ、練習っ?、フフッと笑った。あれはど
ういう笑いだったのか。どんなに有名な職業音楽家だって(だからこそ)、
練習はする。個人的な事はもちろん、リハと言い方は変わるが、ツアー、
リサイタル、とかバンドで練習する。もしかするとジャズというジャン
ルは即興音楽なので、何から何までその場限りでやっつけるモノだ。だ
からすばらしい芸術なんだ、と思っているのかもしれない。まぁ、いいか。
聞いてもらえるなら、なんでもありがたいものだ。練習は自分のことだ。
自分でやる。
明治維新以来、西洋音楽がどっと入ってきた。それにつれて、日本音
楽はどんどんと押されていく。演歌の元になる演説ストリートパフォー
マンスを、バイオリンでやっている挿し絵を、見たことがある。平均律
での音楽は教えやすく広まりやすかった。お稽古事と称され、お金持ち
のものだった和音楽が西洋音楽に取って代わられ、お稽古がレッスンと
名前を変えた。戦後、巨大音楽産業の楽器販売とセットになり、音楽教
室が日本全国津々浦々までできあがる。その系統の音楽教室でしか通じ
ない音楽用語まで生まれ、コンテストの審査員の本日の講評を聞いても
解らず、家に帰って楽器の機械取扱説明書を見てから、さっき聞いた音
楽講評が初めて理解できたりするのです。
レッスンは週一回先生の所に通うのだが、これは間違いである。レッ
スンは家でやるものだ。家でのレッスン、練習が勝負だ。それを先生に
見てもらい、修正とか、次段階に進むとか、もっと高度な音楽の判断と
かをしてもらいに通うのである。と、先生が言っていた。地方になるほど、
習える楽器の選択肢はせまくなる。圧倒的に多いのはピアノとかオルガ
ンだ。夕方に近所の路地を歩いていると、一生懸命弾いているかわいい
音が聞こえる。音のつまづきにつられて、歩く足がもつれることもある。
なんとも微笑ましい。私の他にも、おばさんがニコニコとピアノの音の
家を見ながら歩いている。
しかし、これは子供や若者のレッスンだからだ。それと、楽器の種類
にもよる。これが、ドラムセットとなると全然事情は変わる。一挙に公
害条令の対象となるのだ。なぜだ。もともと古来日本人は太鼓文化のは
ずではないのか。気仙沼港祭りのあの勇士を見ろ。打ち囃子のワクワク
するあふれるリズムを聴け。(友人が下手な打ち囃子は、打ちっ放しだ
ネー、と言ったのは当たりだが、一旦保管しておく。)
普通の家でドラムを練習して、肩身の狭い思いをしているドラマ−諸
君も多いのだろう。私もそうです。しかし、練習をしなくては音楽はで
きない。最初は小さい音で練習するのだが、だんだん基準が広くなり、
フルショットの練習までしていることに気づいた時は、家の中には家族
の姿も消えている。(娘が赤ん坊で逃げられない時、枕元で練習したこ
とがあったなー。)私はいい加減、たいがいにしろと、いわれる年だ。
それが職業ならともかく、ドラムをたたいているバヤイではない。だが、
好きなモノはしょうがない。で、良いことを考えた。高校生の娘に罪を
なすりつけた。ご近所には娘が叩いていることにすれば、私個人の罪は
軽くなる。娘は若者なのだから。オッさんの仮の姿、女子高生ドラマ−だ。
あるダンスパーティーを地区の名士に見られ、盆踊りの和太鼓を叩く
ようにと、盆踊り実行委員会から届いた封筒に書いてあった。それ以来
レギュラーだ。おじいさんに あんつぁん、うんまい on near
と言われたことだってある。
あー、なんげーがった。